さらばーゆ
2001年4月18日イタリア旅行から返ってきた友人に生ハムをいただいた。なるだけ薄く切ろうと包丁に神経を集中して、1枚、2枚....。
想像を遥かに上回って美味いこのハムは信じられないほど安い値段だったそうだ。
というのはお昼の話しなんですが、それから数時間経って落ち着いた今、余っていたハムをまたスライスしていただいた。やっぱり美味しかったのだけれども、初めの一瞬に比べるとずいぶん味が落ちているような気がしてならない。もちろん美味しいには美味しいのだけれど、感動がないのだ。
くだらないことではあるけれど、何故このハムが美味しいかというのを考えてみた。
このハムは、わたしがロンドンの薄暗い空の下で鬱とギリギリ戦っている時に、イタリアで永遠に続くかとも思われたにこやかな笑顔とアホみたいな世間話でまみれたクソ旅行の終了を感じさせるためにお土産として購入されたものなのだからだ。
といってしまうと、あまりにもわたしがひねくれ者で他人の旅行をねたんでいるようだけれど、そうではなくて(否、少しはねたんでいるが)、寒くってあまりにもネガティブなロンドンライフの希望が旅行とイタリアというキーワードで何倍にも増幅されてハムに凝縮されている。と言いたいのだ。
わたしは小さい頃、お祭りの時に並ぶ屋台の焼きそばや綿菓子その他色々のジャンクフードを食べさせてもらえなかった。子供心は素直に親を憎んだけれど、今となってみれば、無駄に高くて不衛生で栄養学を無視した出店のジャンクフードを子供に買い与えることは馬鹿馬鹿しいと思う。がしかし、お祖母ちゃんにもらったおこずかいをお祭りの日までこっそり残しておいて、独りで隠れて買いに行ったあのお好み焼きは、話がくだらないハゲたおっさんにご馳走してもらう高級料亭の懐石料理よりもはるかに美味しいのであった。。
ハ!?これでは、いつの間にか昔話じゃないか。つまり、わたしはイタリアのハムを食べて、そして小さい頃に食べたお好み焼きを思い出した。期待や希望が込められた食べ物というのは例えそれが100円の水飴であっても美味しいのだ。
そしてさらにわたしは日本に帰ってお寿司が食べたいのだ!!
というのが本日のまとめです。
ああ゛、さっぱり分からない日本語
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